徳ヶ渕地区

徳ヶ渕地区

地区のたからもの

十六烈士の墓

徳ヶ渕共同墓地内にあります。
貞享五年(1688年)、 佐土原藩の御手船・ 日向丸は江戸城西本丸の普請用として献上 の栂(つが)材を積んで江戸へ向かいました。 遠州灘で台風のため遭難、家臣の領達は自 ら責を負って船と船員達を助けようと決意、 やむをえず御用材 を海に投げ捨て、 危 うく船は転覆を免 れ下田港に漂着し ました。
島津家の宰 領川越太兵衛、 川越 久兵衛、 成田小左衛は荷打ち(荷を海に捨て る)の責を負い切腹しました。 これを知って 船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一 同も生きて帰るわけにはいかないと全員腹 をかき切って果てました。
この中にはわずか15歳の見習い乗子も加わっていました。
16人の遺体 は下田奉行所によって大安寺裏山で火葬さ れ、郷里の菩提樹と同名の同寺に手厚く葬られました。

恵比寿天満宮

天満宮が明治17年、 恵 比寿神社が大正3年頃から 祀られていた記録がありま す。 七福神の一つで、もと 兵庫県西宮神社の祭神蛭子 命。海上・漁業、商売繁盛 の神様です。

正一位稲荷大明神

もとは正学寺にありましたが、 明治4年、廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく)により 現在の場所に移されまし た。

正学寺跡

徳ヶ渕共同墓 地そばにあり、 現在は標柱のみ が立っています。都於郡黒賞寺末 西暦1470年頃に荒武氏が正学寺を建立したと考えられます。